2009年12月1日火曜日

年賀状


 ここ数年、年賀状は木版刷りにしている。手軽にパソコンで賀状が出来る昨今、あえて手作りにこだわっている。書や刻印を趣味としているのだから、新年のご挨拶もそういう趣味を感じさせるものにしたいのだ。
 しかし生来の怠け者のため、つい作業を先送りしてしまい、毎年大晦日ぎりぎりに彫ったり刷ったりしていた。昨年など三箇日明けに投函するという体たらく・・・
 今年はそんな情けない思いをしないようにと、早めに作り始めた。画像は背景に使う虎の絵の木版。絵は漢代の画像石から取った。これを朱刷りした上に、北魏風の楷書で文字を刷る予定。先日、北魏風楷書印を模写したのは、その練習のためだ。
 郵便局によれば、「年賀状は12月25日までにお出しください」とのこと。つまりこれが、確実に元日に届く最終投函日ということなのだろう。
 
 今年こそは早めに出し、のんびりと大晦日を過ごしたいものだ。
 


2009年11月30日月曜日

河井荃廬 北魏風楷書印(模写)2

 これも荃廬が三井高堅のために刻したもの。


 「聴」の「耳」は前回の印のように「耳」+「ン」に作る他、「身」のように作ることもある。
 
 「氷」は「ン」+「水」の形が小篆に近い。「氷」は「ン」と「水」の第二画が合わさってできた形。

 「鑑」は隷書以来、「金」が下にくる形が併用された。

 
 「鑑蔵」とは鑑定し収蔵するという意味。明の大学士王鍪(ぼう)に「震沢王氏鑑蔵書印」があり、清では西泠八家のひとり黄易が、翁方綱のために刻した「覃谿鑑蔵」が有名である。翁氏がこの印を随所に用いて以後、一般に流行するようになったという。
《参考文献》
佐野光一 『収蔵賞鑑印』 東京堂出版 1992

2009年11月29日日曜日

河井荃廬 北魏風楷書印(模写)1

 篆刻家河井荃廬が、庇護者であった三井高堅(源右衛門)のために刻したもの。

 三井氏は中国古拓本の蒐集に力を注ぎ、金石に通じていた荃廬はその協力をするとともに、多くの印を刻している。
 これらの収集品は聴氷閣コレクションとして知られ、現在は三井記念美術館に所蔵されている。


 わが国で、北魏風の楷書を印に入れたのは荃廬が最初といわれおり、特に始平公造像風の住所印がよく知られている。

2009年11月24日火曜日

旧作と袴


 印譜を作るかたわら、旧作の整理をしている。袴のないものには新たに作ることにした。
 旧作の大半は、もう使うこともないのだけれど、自分なりにこだわって作ったものが汚れたり、傷ついたりするのを見るのも忍びないので・・・
 こうして見ると、ずいぶん丈の短い材が多い。節約して石を2~3等分して使ったからだ。
 いちいち石を切り、磨き、そこではじめて布字をする。そんな手間も妙に楽しかった。

2009年10月29日木曜日

曹全碑18

 久しぶりの曹全。遅々として進まない・・

 文字は「戌・官・役・孝・等・燔」。
 「役」の旁は隷書ではこのように書くのが普通。「孝」上部は「土」→「右上の小点」→「左払い」の順に書く。「燔」の旁「番」は隷書以来、第一画の左払いを省略する。

2009年10月27日火曜日

呉大澂 篆文論語1



 久しぶりの投稿。上からそれぞれ「論語巻上」「学而第一」。
 「巻上」とは論語20篇のうち最初の10篇をさす。「学而第一」とは1番目の篇、学而篇のこと。論語の篇名は、最初に出てくる2字、3字をとってつけている。
 「語」「上」は金文特有の形。「而」は石鼓文、嶧山碑の形に近い。「第」はその本字である「弟」に作っている。

★呉大澂(1835~1903)
 初名は大淳、のち穆宗同治帝の諱を敬避し、大澂とあらためた。字は清卿。恒軒、愙斎などと号した。江蘇呉県の人。
 
 同治戊辰(1868)進士に及第し、文武の顕官を歴任したが、日清戦争に敗れて官を辞した。本来、政治家として治績のあった人だが、今では、金石学者、書画家として著名である。
 
 呉氏は18歳の時、陳換に識られ初めて篆書を学び、陳氏より江声の『篆文尚書』を贈られ、これを習った。23歳の時には、『篆文孝経』50本を書し、その後も『説文』を写す等、篆書の学習に励んだ。
 
 さらに34歳の時には、莫友芝と日夕金石文字を論じ、このころより金文を好むようになったという。これ以降、呉氏の篆書はそれまでの江声風から、金文に力を得た後年の風へと変ずることになる。
 
 金石学者としての著に『説文古籀補』『愙斎集古録』等がある。その篆書も金石学者らしく学問的な裏づけのある、一点一画も笱しくしない正確な篆体で、ゆるぎない整斉な結体、高雅な品格を備えていると評される。
 
★篆文論語
 呉大澂書 光緒12年(1886)刊行
 
 呉大澂は光緒9年(呉氏49歳)に出版した金文字書『説文古籀補』の成果をもとに、金文で『孝経』『論語』を書すことを企図。光緒11年5月に『篆文孝経』一巻を刊行。翌年光緒12年に『篆文論語』を刊行した。
《参考文献》
飯島春敬編 『書道辞典』 小林斗盦「呉大澂」 東京堂出版 1975
比田井南谷編 『書道基本名品集14呉譲之宋武帝勅・他』 北川博邦「呉大澂説文部首」 雄山閣 
1985
呉大澂書 蓑毛政雄監修 『篆書論語』 天来書院 2005

2009年8月31日月曜日

押印

 ただいま印譜制作中。前回紹介した印箋に押印。 

 
 今作っている印譜は、刻印を始めた翌年(平成12年)から去年までの印を収める。自刻印譜は過去に一部作成したのみで、刻印の大半は印譜にもまとめず、ほったらかしにしていた。
 
 いい加減まとめて置かないと散逸するかもしれないので、重い腰を上げ八月中旬から作業に取り掛かった。
 
 
 普通、印譜を編む際は駄作は入れず、作者会心の作(あるいはまあまあの作)を取るものだ。しかし今回は印、印影の残っているものはほとんど入れることにした。それは、ここ十年来の上達の度合いや好みの変化を確認してみたいからだ。
 

  
 まあ、そんなわけだから現在の目から見ると、満足いかない作品も少なくない。人には見せず、たまに取り出して独り眺めることにしよう。

2009年8月24日月曜日

印箋

 印箋とは、印を押し印影を保存するための用紙のこと。
  
 鮮明な印影を得るためには、表面が平滑で油を良く吸収する薄手の紙が適している。また印影を引き立たせるために枠を刷り込むことが多い。
  
 印箋は軸装や額装にして「篆刻作品」に仕立てるためのものと、複数枚を綴じて「印譜」(印影集)に仕立てるためのものがある。
 後者は印箋右側に綴じしろが来るので、その分、枠を左に寄せて印刷する。
 
 画像は自刻印譜用に作った印箋。枠の左側には印譜名や室号を入れるのが普通だが、制作年月日を記入できるように「平成 年 月 日刻」と印刷した。
  
 ちなみに、用紙は「白連半紙」。安価で押しやすい。印刷は家庭用印刷機「プリントゴッコ」を使用。昔は年賀状をこれでよく作ったが、ここ数年は押入れに入れっぱなしだった。印箋作りにも使えそうだとひらめき、ひさびさに使用。十分その任を果たしてくれた。
 

2009年8月17日月曜日

印箱




 知人のために印を刻したので、印箱を作って入れることにした。
 
 市販のものもあるのだが、外張りの布地がどれも同じでつまらないし、印材を収納する部分の作りも決まってるから、特定の大きさ、数の印材しか収められない。
 
 結局、自分に都合のよい箱がほしければ自作するしかないのだ。
 
 そこで、市販品を参考に作ってみたのが、これ。厚紙で形を作り、外側に表布、内側にサテンを張って仕上げた。
 シロウト仕事なので、開閉がうまくいかなかったり、途中で布地がはがれたりして失敗の連続だったがなんとか完成。一見単純な箱も自作は手間がかかることを実感した。
 


2009年7月28日火曜日

曹全碑17


 右行三字目は「芟」(サン・のぞく)。曹全碑では「芟不臣」(不臣を芟く)の用例がある。
 前回と今回は左右の払いの練習。右行の三字と左行一字目の左払いは、筆画の中ほどで進行方向が縦から横に変わり、それと同時に筆画が細めに書かれる。これにより線がペタッと平板にならず、メリハリが付く。
 しかし、実際書いてみると、力の抜き加減や穂先の状態により、ふらついたり、穂が開いて平板な線になったりして、なかなか難しい。

2009年7月26日日曜日

百福印8

 白文の古璽風に。

 白文の古璽では、内側に輪郭をめぐらすものが多い。その結果、自由奔放な古璽文字が引き締められ、印としてのまとまりが良くなる。

2009年7月24日金曜日

曹全碑16

 久々の曹全碑。
 右行二字目は「舎」。隷書では中心部を「エ」に作ることがある。左行一字目は「本」。「大」→「十」のような順序で書く。

2009年7月18日土曜日

一年

 ブログ開設から一年になる。手習いの記録を残そうと思って始めたことだが、なにぶん飽きっぽい性分ゆえ、ここまで続くとは思わなかった。
 
 
 師につかず、展覧会にもかかわらず独学で書を学んでいるため、好きなときに、好きなものを、好きなだけ書ける自由はある。しかし、せっかく手習いをするのだから、少しでもうまくなりたいという欲求もある。そのためには日々のたゆまぬ稽古しかない。
 
 とはいえ独習者であるから、尻をたたく師匠もいなければ、奮起を促す展覧会入賞という好餌もない。好きなこととはいえ、怠け心も出てくる。そこで、日々の手習いをブログにアップすることを目標にし、お習字を習慣化しようとしたのだ。
 
 しかし、自分の書いたものを人目にさらすにはなかなか勇気がいり、苦手な書体はアップを断念したことも多かった。ブログの内容(書体)にかたよりがあるのはそのためだ。
 これからは、出来に多少の不満があっても、なるべくアップし、五体まんべんなくアップするよう心がけたい。

 
 画像は呉大澂『篆文論語』の臨書。よく知られた冒頭の一節、「学而時習之」(学びて時に之を習う)である。自戒をこめて書いてみた。
 

2009年7月17日金曜日

はかま近作五種


 最近刻した印に、はかまをつけてみた。
 
 はかまは印面を保護するキャップであるから、抜け落ちないようピッタリしたものを作るのが肝要だが、これがなかなか難しい。内側の芯紙をグルッと巻くときに緩まないよう気をつけなければならない。しかし、なにぶん細かい作業なので思うように指が動かず難儀する。
 

2009年7月6日月曜日

百福印7

 前回同様、装飾的な漢私印の様式で。

2009年7月5日日曜日

百福印6

 古璽風が続いたので、ちょっと目先をかえて漢代私印の装飾的な作風で。

 古璽ほど多種多様ではないが、漢印にも、こんなちょっと変わった調子のものがある。いささか作り物めいた感もないではないが、たまにやってみるのも面白いかと思い試みた。

2009年7月4日土曜日

百福印5


 円形の古璽では、文字の縦画を内側に傾けさせたり、やや湾曲させたりして、円い輪郭と文字が調和するよう工夫されている。
 この印でも縦画を微妙に内側に傾けさせてみたのだが、うまくいっただろうか。古璽の自由闊達さには程遠い・・・
 前回(4)と今回、印材は寿山石を使った。一個百円の安物で硬い材だ。しかし、細い線を刻すのには向いてるようだ。

2009年7月3日金曜日

百福印4

 まるで西洋の盾みたいな形だが、実は古璽にこの形があり、それに倣ってみたのだ。
 
 古璽の形は方形円形の他、菱形や方円を組み合わせたもの、果てはハート形までありバラエティに富んでいて楽しい。

2009年7月1日水曜日

百福印3

 金文を用いて古璽風に。

 殷周の金文は筆画がもう少し太めなのだが、辺縁が太く、文字の線が細い古璽風を狙ったため、この細さとなった。
 ちなみに古璽の「福」は金文の形とはかなり異なる。いずれ、そちらの形でも試みてみたい。

2009年6月30日火曜日

百福印2


 これも漢印の文字で。こちらは朱文に作ってみた。印材は青田石。

2009年6月16日火曜日

百福印1

 「福」「禄」「寿」といった縁起の良い文字を百の異なった字体で書き分け、一幅の書とするものがある。これらは書かれた文字により「百福図」「百寿図」などと呼ばれ、中国ではわりによく見かける縁起物である。

 たいがい赤地に金文字で書かれるため派手派手で、いかにもオメデタイという感じなのだが、縁起物という俗っぽい性質をもつため、そこに書かれている文字(篆書が多い)は来歴不明のアヤシゲなものが大半を占める。

 清朝の大儒、兪曲園(1821~1902)は、そんな俗臭のする「百寿図」に嫌気がさし、みずから漢印より百種の寿字をえらび、新たな「百寿図」を完成させた。各字の下に出典の印文をいちいち記しているあたり、学者らしい配慮がうかがわれる。

 

 さて、前置きが長くなったが、その「百●図」のうちの「百福図」を印で作ってみようというのがタイトルの「百福印」である。

 このような試みは、私が創始したわけでなく、中国の印人がよくやるようでネット上でも「百寿印」「百福印」の作品をいくつも見かける。

 前々からやってみたかったのだが、百という数に尻込みしてなかなか手がつけられずにいた。しかし、多数の印を刻すことは刻技の向上にもつながるので挑戦することにした。

 書体は篆書に限定することとした。篆書といっても甲骨文、金文、木簡、古璽、漢印、小篆等いろいろあるわけだが、手元にある資料では百種に満たない。寿字が漢印の文字だけで百種そろったのとは大違いだ。
 しかしそこは「印」であるから、ひとつの字例でも、印文の朱白、輪郭の方円などを違えれば、数種の印ができる。まあ、そんな風にして百印を刻っていきたいと思う。
 
 一番目は漢印風に。印材は1.8cm角。全印にわたって基本的に同大の材を使うことにする。



 

 



2009年5月27日水曜日

曹全碑15

 左払いの練習。といっても「易」「家」「楊」では末筆を止めているので、「左払い」ではなくて、「左斜め下に向かう斜画」と言うべきだろう。
 直線的な左向きの斜画は穂先が安定せず、思いのほか太くなったりして苦労する。



 六字目は「楊」。旁を「易」に作るものは木簡にも例があり、曹全碑では「陽」も同様に作る。

2009年5月22日金曜日

趙之謙刻印「趙」(模写)

 趙氏自用の姓印。側款によれば、漢碑額に倣ったものという。
 
 書画の落款に姓のみの印を用いることはあまりないが、古くは趙子昂、鮮于枢、下って西泠八家、呉趙に例がある。
 
 趙子昂の姓印は朱文の方円二種がある。趙之謙のこの印は、筆画の形状、筆画と輪郭との離合等に小異はあるが、子昂の印を意識したものと思われる。
 なお後人趙時綱にこの印をほとんど丸取りした自用印がある。

肖形印「魚鳥」(模刻)


 『十鐘山房印挙』所収。2羽の水禽と1匹の魚を刻したもの。
 
 『中国古代の肖形印』(王伯敏著・中野遵訳 東方書店1985)では、漢代の石刻には2羽の(1羽の場合もある)鷺が1匹の魚を食べている図像があり、「鷺」「食」「魚」の仮借音はそれぞれ「多」「十」「余」であり、続けて「一多十余」と読み、意味は「多く有り余り有り大吉大利である」ことで、この類の魚鳥印は吉祥を願った印の一種であると結論づけている。
 
 『十鐘山房印挙』所収の諸印は鳥が2羽のものが多いが1羽の例もある。

2009年5月21日木曜日

曹全碑14



 半紙六字書きと並行して進めている原寸臨書。
テキストは『曹全碑(百衲本)』(天来書院)。筆は唐筆双料写巻。墨は和製油煙墨。紙は半切大の毛辺を見開き1ページ分の大きさに合わせて切ったもの。
 
本碑は冒頭の数字が他の字に比べて大きく書かれている。書き出しということで緊張して大きくなったのか、あるいは曹全の姓名字本籍を他よりもハッキリと見せるためなのか。
 
ともあれ、書き出しの数字は実に書きにくい微妙な大きさだ。

2009年5月14日木曜日

曹全碑13

 左払いの練習。五字目は「存」。左側の縦画を省略している。

2009年5月13日水曜日

曹全碑12

 
六字目は「甄(ケン)」。原本では「甄極毖緯」(奥深い書物を究め明らかにする)のように使われている。

2009年4月23日木曜日

漢印「盧蒼」(模写)

 これも漢代の玉印。「蒼」の「倉」上部を曲線に作り、整斉な印面に変化を与えている。その結果「へ」左右に朱が大きく残った。しかし、「口」を上に詰め下に朱を残し対応させている。整斉な印は単調になりがちだが、この印はそうならぬ様工夫されている。 


 原印影より線がやや太めになってしまった。また、長い縦画の微妙な抑揚も写しきれていない。もう少し描きこみが必要だ。

2009年4月22日水曜日

漢印「趙安」(模写)


 前回の「膂郷」と同様に精緻な作風。長く、そりのある縦画の連続が印象的だ。原印は瑪瑙製とのことである。

2009年4月21日火曜日

漢印「膂郷」(模写)

 
 漢代の玉印は精緻な作が多いが、これもそのひとつである。前回の「鄭禹」に比べて、起筆や転折が角ばっており、ピンと引き締まった印象を与える。さらに、筆意を感じさせる線の反りにより、硬い印象を和らげ、のびやかさを加えている。
 
 

2009年4月20日月曜日

漢印「鄭禹」(模写)

 一口に漢印といっても様々な風格がある。これはその中でも曲線的で滑らかな筆画を持つ。小篆の筆意を残しながらも、四角の印面にうまく収まるように筆画を折り曲げている。
 参考のために説文篆文を抜書きしておいた。両者を比較すると「禹」の下部の筆画は説文篆文よりウネリが強調され流動的である。

2009年4月16日木曜日

曹全碑11


 短い右払いと縦画から右払いに移る筆画の練習。これもまた多種多様である。
  
 一字目「宗」は原本ではウ冠が右肩下がりになっているのだが、「示」の「ニ」を右肩上がりにしたり、「ノ」を左側に強く払い出したりして、文字全体でうまくバランスをとっている。
 その通りに真似ようとするとバランスが崩れてしまうので、凡庸な形にまとめるより仕方なかった。
 
 左行三字目は「覲」(キン・まみえる)。普段あまり使わない字である。曹全碑では「朝覲之階」という用例がある。「朝覲」とは皇帝に謁見すること。
 偏の横画が活字より一本少ないが、隷書にはこのような例があり、楷行書でもこの形に作ることがある。

2009年4月13日月曜日

曹全碑10

 引き続き長い右払いの練習。右払いも細かく観察すると一字ごとに違いがある。末筆で筆先をはねあげるもの、素直に右下に引き抜くもの、線の上部が真っ直ぐなもの、弧をえがくもの等等。
 臨書を重ねるごとに新たな発見があるが、同時に今までの臨書の大雑把さを思い知らされる。
 
 右側二字目は「定」。うかんむりの下を「一」「之」のように作る。石門頌にも同様の形がある。楷行書では「之」のような形に作る例が多い。
 右側三字目は「徳」。旁上部をなべぶたのように作るのは憙平石経にも例がある。
 左側三字目は「賢」。上部の「臣」の縦画が突き抜けているが、隷書ではこの様に書くことがある。

2009年4月11日土曜日

近刻「紘」「碧」





 左から「紘」「碧」。知人のために最近刻したもの。「紘」は寿山石、「碧」は巴林石。
  
 印泥はオレンジに近い色のものを用いたが、携帯のカメラで撮ると黒っぽい(美麗印泥のような)色になってしまう。

2009年4月9日木曜日

曹全碑9

 長い右払いをもつ字の練習。最初に筆画を思い切り左に寄せ、その後に悠々と長く右に払う。これにより、右払いの長さ、のびやかさが強調される。胸のすくような造形だ。
 右行1字目は「民」。隷書以来右上に一点を打つことが多い。左行2.3字目は「近」「延」。曹全碑では、「しんにょう」も「えんにょう」も同形に書く。「廷」も同様。

2009年4月8日水曜日

曹全碑8


 右行二字目は「害」。現在一般的に書かれる形とは異なるが、隷書以来中心部を「土」に作ることが多い。史晨碑でも同様の形である。
 隷書の横画は、水平であること多いが、微妙に右肩上がり(下がり)のこともある。それでも、他の点画の肥痩や位置で巧くバランスをとっている。
 臨書すると、ただ漫然と見ていては気づかなかった事に気づくし、それを筆で再現することの難しさも実感する。
 

2009年4月4日土曜日

肖形印 「鳥」2(模刻)


 一見、迷路のようだが、実はかなり図案化された鳥の姿である。『中国古代の肖形印』(王伯敏著・中野遵訳・東方書店刊)では、この印を含む数種の肖形印と商・周・戦国時代の銅器の文様を比較し、その類似性を指摘している。また、この事を根拠に、肖形印の起源を銅器の鋳型に求めている。

2009年4月3日金曜日

曹全碑7

 原本では「合」の 「一」や「同」の「口」は、中心よりやや左に寄せて書かれている。これにより右側に余白が出来、文字の内部を窮屈にせず、さらに動きも与えている。
 曹全碑の軽快な美しさは、細身の筆画や扁平な字形だけでなく、このような、さりげない点画の組み合わせに起因することに、あらためて気づかされた。
 とはいうものの、なかなかその通りには筆が動かないのだが・・・
 


 

2009年4月2日木曜日

曹全碑6

 左の上から二字目、「掖」の旁「夜」は『書道技法講座②曹全碑』では「ク」であり、『曹全碑』(二玄社刊、三井氏聴氷閣蔵本、明拓)『曹全碑』(二玄社刊、田近憲三蔵本、清拓)『曹全碑』(天来書院刊、百衲本)ともに「ク」であった。
 『曹全碑』(天来書院)では、欄外の解説で「タ」に正している。『書道字典』(ニ玄社)の「掖」も「タ」であった。その形に作る本があるのか、あるいは補筆したのかはもしれない。同書の「夜」は史晨碑、西狭頌ともに「タ」に作り、小篆の形からいってもこちらが一般的といえるようだ。
 

2009年3月28日土曜日

肖形印 「虎」(模刻)

 古代の肖形印の多くは、印面の腐食や傷により線が模糊としているのが普通だが、この印は、ほとんどそれがなく、シャープ印象をあたえる。
 中国の切り紙細工を連想するのは私だけだろうか。
 

2009年3月25日水曜日

肖形印 「獣形」(模刻)

 これが一体何の動物なのかはわからない。頭部からの突起がくちばしのように見えるが、足の太さから推測して鳥ではあるまい。仮に獣形としておく。
 ともあれ、必要最低限の点と線で構成された素朴な作だ。しかも、獣形の位置、周囲の余白等無駄がなく安定感がある。これらをどこまで模すことができたろう。
 お手本の印影は『図説中国の古印』(羅福頤著 北川博邦訳 雄山閣1983)によった。同書によれば、戦国時代の遺物とのことである。

2009年3月3日火曜日

曹全碑5

 ひきつづき基本点画の練習。

はかま



 「はかま」とは、印面を保護するために着けるキャップのこと。中国では「印套(いんとう)」と呼ぶようだ。
 
 印面が汚れたり、傷ついたりするのを防ぐためのものだから、抜け落ちないようにピッタリしたものにするのが重要。はかまをはずす時、「ポン」と音がでるくらいがちょうど良い密着度らしい。
 普通、内側には赤い布を使う。印泥が付いて汚れても目立たないからだ。外側には表具用のきれを貼り付ける。印材の色合いにあわせ、きれを選ぶのも楽しい。