2008年11月30日日曜日

王福庵 説文部首13


 今月はここまで。結局12月に持ち越すこととなった。最初は、双鉤も二週間ほどで完成させ臨書に移る予定だったが、思いのほか時間がかかってしまった。あと3日ほどでケリをつけたい。 
 来月は年賀状用の印などもUPしたいと考えているが、半年ほど奏刀していないので、リハビリが必要かもしれない・・・

王福庵 説文部首12




 原本に枠があるので、それに倣って朱で枠を引いている。私は小筆と適当な棒を箸のように持ち、棒を溝付き定規の溝に滑らせて直線を引くというやり方をしている。美術の時間にレタリングで習った技法だ。他に、筆についているキャップの先を斜めに切り、穂先を少し出し、キャップを定規に沿わせて引くという方法もあるらしい。
 これが調子のいい時と悪い時がある。まあ、練習不足といってしまえばそれまでだが・・・

王福庵 説文部首11








 古人の双鉤の線は細く均一で、さすがだと感じる。墨の濃さ、筆の下ろし具合等工夫してみるが、なかなか均一な線は引けない。


2008年11月29日土曜日

王福庵 説文部首10










 今月中には終わりそうもない。




2008年11月25日火曜日

王福庵 説文部首9



 篆書は左右相称に作るのが原則で、特に小篆では、この原則が厳格に守られている。本作品も一見整斉な小篆であるが、模写してみると、左右相称が崩れている筆画を発見する。しかし、筆画の太さや角度を巧みに操作してバランスを取り、整斉に見せている。そのようなアドリブの力がなければ、これだけの字数を一気に書き下ろすことは困難であろう。

王福庵 説文部首8







 説文部首はあと見開き17ページ(画像で34枚)だ。一日、見開き3ページずつ進めて今月末に終了予定。怠け心との戦いだ。



2008年11月24日月曜日

王福庵 説文部首7




 二週間ぶりの説文部首。11月もあとわずか。今月中になんとか終わらせたいが、うまくいくかどうか・・・

2008年11月19日水曜日

趙之謙刻印 「以分為隷」(模写)


 これも趙印の模写。字画の繁簡に応じて筆画の太さを調整して、巧みにバランスをとっている。さらに文字を印面中心部に集中させ、まわりに朱を残し、全体をひきしめている。印文の意味に合わせたわけでもなかろうが、『分』字第2画の末筆が波発のような形をとるのも面白い。


 

2008年11月17日月曜日

趙之謙刻印 「漢学居」(模写)


 趙之謙の印を模写した。 朱白の対比が鮮やかな印だ。一見整斉な印象を持つが、模写してみるとゆがんだ筆画が多い事に気づく。しかし、全体としては違和感なくまとまっている。見事というほかない。
 

2008年11月9日日曜日

王福庵 説文部首6















 今は、書の名品の多くを影印本という形で入手できるが、昔はそんなものはないので、拓本や肉筆を借りて、それを双鉤に取り自分の手本としたのだ。いわば、自分で手本を作っているようなものだから、模写のしかたも、いきおい真剣なものになったことだろう。 双鉤していると、微妙にずれることもあるが「まあいいか」で済ませてしまうことも多い。手本が手に入りにくかった昔の方が、学ぶことに貪欲になれたのではないかと思う。
 今回も王福庵の印影の模写を添えた。印文は「有好都能累此生」(好む有らば都べて能く此の生を累はす)である。これも、鄧石如に同文の印がある。文字の線に対し、辺縁を極端に太くした古璽風を基調としながら、三角形の筆画を多用し、シャレた印になっている。西泠八家のうち、巧緻な印風で知られた、趙之チン(深の偏を王に)に倣ったものだろう。
 





2008年11月8日土曜日

王福庵 説文部首5





 説文部首は類似の字が並んでいることが多い。これは、説文が字を暗記するためのものだったためだという。 
 二枚目の画像の「百」(2行目の1番目)は、正しくは「百百」(ヒョク)。王氏の間違いらしい。ちなみに「百」は「シ」(1行目の3番目)の部に属する。
 最後の画像はおまけ。王福庵の刻印の模写。「意与古会」(意 古と会す)である。鄧石如に同文の印がある。側款に「曽て黄牧甫に是の印有るを見る。福庵これになら(イ方)ふ」とあり、黄士陵(1849~1908)の倣作のつもりらしいが、見比べてみるとあまり似ていない。彼の国の人のいう倣とか模とかは、かなり大雑把なもののようである。 
 両印影は『王福庵印譜』(東京堂出版1989)『黄牧甫自存印譜 ・下』(同1992)でそれぞれ見ることができる。

王福庵 説文部首4








 なんとか挫折せずに続いている。 
 説文の部首は540部で、康煕字典の部首、214部よりはるかに多い。そのため、一般の漢和辞典とは個々の文字の属する部が違うことも少なくない。そこで、模写する時は傍らに説文をおき、各部首にはどんな字が属しているかを確認しながら進めている。
 篆書をかいたり、印を彫ったりするから、一応、説文は持っているが、ほとんど「お飾り」状態でホコリをかぶってる。 いい機会だから、見出し字だけでも一通り見ておこうと思う。


2008年11月5日水曜日

印材



 書道用品店で安物の印材の箱をゴソゴソやっていると、たまに奇麗な石に出くわす事がある。そんな時は、掘り出し物を見つけたような気分になる。高価な美材、名石は、手が出ないので、そんなものを集めては独り娯しんでいる。安い石でも、耐水ペーパーや研磨剤で磨けば、そこそこキレイになり、手を掛けた分だけ愛着もます。
 これは、そんな石のひとつ。6~7年前に購入した巴林石。やや寸詰まりで、上部が斜めになっているのは、石の奇麗な部分だけを切り取ったためだ。

2008年11月4日火曜日

王福庵 説文部首3



さらに、つづき。 

2008年11月3日月曜日

王福庵 説文部首2



前回のつづき。

2008年11月2日日曜日

王福庵 説文部首1

 説文部首は、楊ギ(ツ斤)孫、呉大チョウ(徴の偏をさんずいに)など名家の作品も多いが、私は王福庵のものが好きだ。楊、呉ニ家の書は、小篆というより大篆に近く、部分的に金文の形も混じっている。それに比べると王のこの書は、クセの少ない小篆であり、馴染みやすく感じる。


 


 こんもりとした線でたんたんと書かれており、クセとかインパクトとは無縁の静かな世界だ。


 


 以前、全臨したのだが、復習のために今度は双鉤から行い、丁寧に習ってみようかと思う。


 


★王福庵(1880~1960)


 原名は寿キ(示其)、のちシ(示是)と改めた。字は維季。福庵、印傭、羅刹江民などと号し、70歳以後は持黙老人と号した。浙江仁和の人。

 読書人の家柄で、幼時より書、篆刻に親しむ。光緒30年、25歳の時には、丁輔之、呉石潜、葉三品らと共に、印学研究を目的として西泠印社を創設した。若い頃は、算術と測量製図の技術により鉄道部門に従事した。34歳の時に湖南、湖北省一帯を漫遊したのち、北京印鋳局の技師となり、兼ねて故宮博物院古物陳列所の鑑定委員を務める。50歳の時に南京印鋳局の技師となるが、翌年辞職し、上海に帰り、以後は書、印を売って生計を立てた。解放後は、浙江省文史館館員、上海国画院画師、中国金石篆刻研究社チュウ(竹冠に壽)委員会主任委員を歴任。1960年3月2日、上海の寓居において、81歳で逝去した。

 篆刻は、古璽、漢印を範としながら、浙、鄧両派および、宋元の円朱文の表現をとりいれ、独自の温雅な作風を築いた。また印のたくみさのみならず、印文の選択、側款の文章も非常に気が利いている。また、篆、隷の書にもすぐれ、篆刻同様穏やかな作風である。



★説文部首

 完本として伝わる最古の漢字の字書は、後漢の許慎が紀元100年に著した『説文解字』で、540の部首の下に9353字を収める。 『説文』所収の文字は全てこの540の部首のどれかか、その組み合わせによって成り立っている。つまり、この部首全てを覚えれば、すべての『説文』所収の篆書が読み、書けるという理屈になる。



《参考文献》

北川博邦他訳 『印と印人』 二玄社 1982
北川博邦監修 蓑毛政雄編 『王福庵印譜』 東京堂出版 1989
伏見沖敬他著 『書法Ⅱ』 角川書店 1994

 

2008年11月1日土曜日

曹全碑2


前回、双鉤した箇所より六字を半紙に臨書。

なめらかな波勢をとらえることに苦心した。