2009年10月29日木曜日

曹全碑18

 久しぶりの曹全。遅々として進まない・・

 文字は「戌・官・役・孝・等・燔」。
 「役」の旁は隷書ではこのように書くのが普通。「孝」上部は「土」→「右上の小点」→「左払い」の順に書く。「燔」の旁「番」は隷書以来、第一画の左払いを省略する。

2009年10月27日火曜日

呉大澂 篆文論語1



 久しぶりの投稿。上からそれぞれ「論語巻上」「学而第一」。
 「巻上」とは論語20篇のうち最初の10篇をさす。「学而第一」とは1番目の篇、学而篇のこと。論語の篇名は、最初に出てくる2字、3字をとってつけている。
 「語」「上」は金文特有の形。「而」は石鼓文、嶧山碑の形に近い。「第」はその本字である「弟」に作っている。

★呉大澂(1835~1903)
 初名は大淳、のち穆宗同治帝の諱を敬避し、大澂とあらためた。字は清卿。恒軒、愙斎などと号した。江蘇呉県の人。
 
 同治戊辰(1868)進士に及第し、文武の顕官を歴任したが、日清戦争に敗れて官を辞した。本来、政治家として治績のあった人だが、今では、金石学者、書画家として著名である。
 
 呉氏は18歳の時、陳換に識られ初めて篆書を学び、陳氏より江声の『篆文尚書』を贈られ、これを習った。23歳の時には、『篆文孝経』50本を書し、その後も『説文』を写す等、篆書の学習に励んだ。
 
 さらに34歳の時には、莫友芝と日夕金石文字を論じ、このころより金文を好むようになったという。これ以降、呉氏の篆書はそれまでの江声風から、金文に力を得た後年の風へと変ずることになる。
 
 金石学者としての著に『説文古籀補』『愙斎集古録』等がある。その篆書も金石学者らしく学問的な裏づけのある、一点一画も笱しくしない正確な篆体で、ゆるぎない整斉な結体、高雅な品格を備えていると評される。
 
★篆文論語
 呉大澂書 光緒12年(1886)刊行
 
 呉大澂は光緒9年(呉氏49歳)に出版した金文字書『説文古籀補』の成果をもとに、金文で『孝経』『論語』を書すことを企図。光緒11年5月に『篆文孝経』一巻を刊行。翌年光緒12年に『篆文論語』を刊行した。
《参考文献》
飯島春敬編 『書道辞典』 小林斗盦「呉大澂」 東京堂出版 1975
比田井南谷編 『書道基本名品集14呉譲之宋武帝勅・他』 北川博邦「呉大澂説文部首」 雄山閣 
1985
呉大澂書 蓑毛政雄監修 『篆書論語』 天来書院 2005